かせきさいだぁ
作詞家/ラッパー/ヒネモシスト/漫画家
誰にも頼まれずに執筆を続ける脱力系4コマ漫画「ハグトン」。
ハグトンの好物はカフェラテ(最近はソイラテ)だそう。

ロックンロール文庫 ゴボウくんのたしかにニガイブラックコーヒー伝説

2009.04.25
vol.11「星ゴキブリ〜前編〜」

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 サイフォンコーヒーの作り方は教えてくれても私生活のことに関してはいっさい口を開かない。ぼくに対して一定の距離をおいている。ぼくもその距離で見る佐藤さんが魅力的だ。矛盾しているが、だからこそ近づきたくなる。


 佐藤さんは丁寧にサイフォン式コーヒーの煎れ方を教えてくれた。一度簡単に一連の流れを説明してくれると、佐藤さんはタバコに火をつけ一度だけ煙を深く吸って吐き出し、すぐにそれを灰皿に押し付けて火を消した。そして「よしっ」と言って口を結び準備に取りかかった。


「焙煎豆は古くなると酸化して味が落ちる。ここはいつも新鮮な豆を使ってるから。こうやって真空パック状態になってる。空けるよ」
「いい匂いすねー!!」
「そう!? いい匂いする!? いまからこの電動式のミルで豆挽くけど、挽いたら味落ちないように手際良く進めていかないといけない。さっき言った通りにね。じゃ、ミルに入れるよ。……。この中挽きがね……、サイフォンに合うんだ。ほら、村井くんフラスコボールにお湯入れて。目盛りあるでしょ、そうそこ。もうちょっと、あと1センチくらい。そう。はい、次、フィルターをロートにセットして。水に浸してるフィルター。そう、それ。ロートの管に通して。そ、で先端のフックで留めて。留ーめーて。違う。そう。はい、じゃあここにブレンドの粉いれて。はいブレンドの粉。いい香りする!? ね、いいよね。はい、じゃ入れて。そうそうそう。ロートの底に均等になるように。はい、じゃあ火つけるよ。村井くんやってみよっか。……。違う。ガスバーナーにだから。はい、やってみて、普通に火つけるだけだから。違う違う。普通でいいから。それじゃつかないから。そうもうちょっと栓開いて……そうそのくらい。で、フラスコボールに入ったお湯を沸騰させる。ほら沸騰してきた。あー腹減った。村井くん腹減ったね。コーヒー飲んだらどっか居酒屋にでも行こっか。村井くん呑めないんだっけ!?」
「あんま呑めないんです。どこの居酒屋にしま」
「さぁ沸騰してきたぞー!!お湯が上のロートに上がっていくから。上がってきた、ね。ほぉら、上がった!!ねっ!!ロートに完全にお湯が上がったら、火力を弱めにする。そう、そのくらい。いい感じでしょ。村井くんここ見て。古い焙煎豆を使ってると泡立ちが少ないけど、新鮮な焙煎豆を使うと泡立ちがいいんだ。これは泡の層が大きい。ね!? はい、ヘラでかき混ぜる。かき混ぜたら……。そう30秒くらい待つ。そう、火を止める。そうすると、抽出液がフラスコボールに落ちる、ほら落ちてきた、このシーンがいいよねー。すっきりするよねー。はい落ちきった!! ほーら完成だ!!」
「やったー!!!!」
「抽出液が落ちるとこいいでしょ!? 俺あそこのシーン好き」
「いやあ、名シーンですねー」
「これはいいよ。これは旨いよ。見て。抽出した後のここ。コーヒーかすがドーム状に盛り上がってるでしょ!?ね!?これは成功なの。平らになっていたら、よくない。フィルターが目詰まりしているか火力に問題があるってこと。これはね、凄くいいよ!!」
「佐藤さん、カップはこれでいいですか!?」
「どうせだからスペシャルなコーヒーカップにしよっ。シャテニエに5つしかないマイセンのコーヒーカップ!!これでいただきましょう。器がいいとより美味しいからね」


 初めてサイフォンで淹れたコーヒー。その透き通った琥珀色のコーヒーを丁寧にマイセンのコーヒーカップに注ぐ。香りが骨にまで染み込み、体内ランプにポッと火を灯した。ぼくがブラックは苦手なのを知っている佐藤さんが「ブラックが飲めないなんてもったいないねぇ」と言いながらもミルクを差し出してくれた。
 佐藤さんが飲むのを横目で確認してからぼくはカップを鼻の下まで持っていって神経を集中させ、胸いっぱいに香りを吸い込んだ。あったかいコーヒーの香りが鼻の奥に突き刺さる。それからミルクと砂糖をわずかに入れ、ほんの少し口に含む。……また少し。……また少し。


 カチッ。


 半分くらい飲んだところでタバコに火をつける。タバコの煙を吐き出し、口にコーヒーを含む。そうやってタバコを吸いながらちびりちびりやり、最後に一気に口の中に流し込み、グイッと飲んだ。


 ふうっと大きく息を吐く。


 旨いっ!!
 実に、旨いっ!!!!
 佐藤さんは満足げなぼくの顔を見てにやついていた。ぼくはなんだか気分が良くなり、調子に乗ってもう一杯淹れた。初めて淹れたコーヒーが美味しかったのは、佐藤さんの教え方が良かったからだ。二杯目のコーヒーを淹れているときに佐藤さんは、グァテマラ、メキシコ、ブラジルを同じ割合でブレンドし、キリマンジャロを少々加えたものがシャテニエのオリジナルブレンドなんだよ、と説明してくれた。酸味や苦味、甘味とアロマがちょうどよく調和しているという。


 2杯目のコーヒーをカップに注ぐ。ぼくはコーヒーの肴に自分で撮った写真をまとめたファイルを出した。佐藤さんはゆっくりとページをめくって一枚一枚丹念に写真を眺めた。その中に汚れたスニーカーの写真がある。写真の授業で「時」を課題に出されて提出した写真だ。先生にはプリントの仕方が甘いと言われて返却されたが、佐藤さんはその写真を顔に近づけたり離したりしながら見つめ「これいいじゃん」と言って気にいってくれたようだった。その写真は、ぼくが高校生の頃から履いているコンバースのワンスターを学校にある接写用のレンズを使って撮ったものだった。コンバースの星のシンボルマークをアップで写している。今日も履いているがスエードは色がはげ、汚れもひどく、そのくたびれた表情は、この古めかしい喫茶店の中で改めて見ると年月の経過を充分感じさせた。写真の授業で課題を出された直後の昼休み、カメラを持ったモモちゃんがぼくのところへ寄ってきて何も言わずにぼくの足元でシャッターを押した。ぼくはドキッとして「どご撮ってんだず」と訛りが出そうになったが、慌てて口を閉じ何も言わずにシャッターを押すモモちゃんを見つめていた。モモちゃんがいなくなってからこっそり学校の屋上へ行き、自分のスニーカーを撮ったものがこの写真だった。モモちゃんがワンスターの写真を提出したかどうかは定かではないが、そのときのことを思い出し顔がほころんだ。佐藤さんはぼくのバッグにカメラが入っているのを見つけると早速カメラを持って撮る構えをしてみせた。


 佐藤さんとぼくだけのこの深夜のシャテニエに少しでも長くいたい。夜中に秘密の喫茶店で秘密のコーヒーを秘密のうちに飲んで、ソファー席にタバコをくわえながら悠々と腰かけ大窓から見える高円寺駅を眺めた。あんまり居心地がいいので、居酒屋でご飯を食べるのではなく、シャテニエの中でご飯を食べたいと申し出た。


 コンビニに買い出しに行くことになったぼくは佐藤さんから例の5,000円を預かり、弁当や肉まん、フランクフルトに酒やスナック菓子などありとあらゆる食料を買えるだけ買った。あらかじめ用意された時間を過ごすのは義務感があって楽しみが損なわれるが、こうしてふいに訪れた時間はどれほどぼくをワクワクさせただろうか。寒空の下、浮かれたぼくの足取りはいつの間にか小走りになっていたが、通り過ぎる光景はスローモーションのように目に映った。駅前のバス停で病的なキスをする恋人たち。その恋人たちの頭上にある暗闇の渦の中心にあいた丸い覗き穴。そこからいっぱいの光がもれている。恋人たちの様子を覗き見する月のまわりには宝石のような星がたくさん見える。あの星のどこかにきっと宇宙人がいてこの高円寺の様子を眺めているに違いない……。


 意気揚々とシャテニエに戻り、佐藤さんに声をかけようとして口を閉じた。佐藤さんはソファーに横になって眠っていた。気持ち良さそうに眠っているので声をかけるのを止め、ビニールごとコンビニの食料をそっと冷蔵庫にしまった。佐藤さんと話したいことは山ほどある。聞きたいこともたくさんあるし、ぼく自身のこともたくさん話したい。店を閉めてからも私的なことはいっさい話さず黙々と次の日の仕込みをして、最後に一日の売り上げを計算する佐藤さん。ぼくはトイレ掃除をし掃除機をかけて各テーブルの砂糖を補充してから表にあるシャテニエの看板をしまい、佐藤さんを待って一緒に店を出る。佐藤さんは純情商店街の方へ、ぼくは駅の方へ向かう。今日みたいな機会はめったにない。寝息をたてる佐藤さんを見て何度も起こそうかと思ったが、起こしたら幸福が逃げ去ってしまいそうな気がしてそっと見守っていた。


 しばらくしてぼくはこっそり電動式ミルで豆を挽き、もう一度サイフォンでブレンドコーヒーをつくった。
ソファーにダラッと腰掛け、三杯目のコーヒーを飲む。
店いっぱいに漂うコーヒーの香り。
真夜中の沈黙。
キスしたい。繰り返し繰り返しキスしたい。初めて味わう果物のような味。そのキスが習慣になって、それなしでは生きていけなくなるほどのキスがしたい。まだ会ったことのない彼女とコーヒーを飲みながらうっとりするような時間を過ごしたい……。



 ふと視線を感じ、壁の方へ目をやると小指の爪ほどの小さなゴキブリがじっと動かずに壁に留まっていた。佐藤さんはぐっすり眠っている。やることもないのでぼくはいつも持ち歩いていた日記帳を開いた。また壁のほうから視線を感じる。テーブルにこぼれていた砂糖を親指の平で押し、灰皿に落とす。どうしても視線を感じる。ぼくは壁に留まった小さなチャバネゴキブリに見つめられている錯覚に陥った。気持ち悪い、と席を立とうとした瞬間、


「産まれるぅ!!!!」


 !!!?


「産まれるぅ」


 !!!?


「産……ま……れ……る……痛っ」


 ぼくの体は硬直した。口に加えたタバコの煙が目に入り瞼を閉じる。
 まさかと思ったが、その1.5センチ程のゴキブリは小さな小さな声で、けれどはっきりと「産まれるぅ……」と言ったのだ。ぼくははっきりとその言葉を聞いたのだ。
 ゆっくり瞼を開ける。


「あ゛……あ゛……あ゛……」


 そいつは悶えながら小刻みに体を震わせていた。



「星ゴキブリ 〜後編〜」 へ続く (次回は、5月10日UP予定です)